優劣付けに縛られるしんどさ。それほんとに必要?~無意味な比較達~

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この数字はAI(ChatGPT)による情報源の分析結果と著者の評価を基に設定しています。元となる参考文献は記事内に掲載しています。(ショートブログ除く)

皆さんはこれまでいくつの発信者の言葉やコメントに触れてきたでしょうか。

その中でも有能・無能・上位・下位こんな強すぎるワードを見て不安な気持ちになったり、楽しい気持ちに釘を打たれた気分になった事はないでしょうか。

今回私がお伝えしたい事を先に述べます。

人はそれぞれ測りきれない素質をたくさん抱えているのに、強すぎるワードを聞いて他者と比較しては委縮したり特定の部分において良い傾向を発揮できないがためにマイナスな言葉を受け入れて委縮し、引きずってしまう。
そんな現代に疑問を持ったことはないでしょうか。

というお話がテーマです。

やたら優劣をつけたがる社会ですが、その優劣の結果によって自己否定につながるパターンも決して少なくありません。
そのようなリスクのある優劣付け行動は本当に必要で、かつ、気にすべきなのでしょうか。

人が優劣を気にする仕組み エビデンスレベル2

理由はいたって単純です。

社会的比較理論
人は、他人と比較することで自分を理解しようとする心理があります。
これは特に「能力・成果」において起こりやすいとされています。

Festinger, 1954

人間の歴史において、序列をつける行為は生存戦略の一つだったという歴史があります。

例えば、強い者に食料を。
身分の高いものに富を。
結果を出せるものから順に分配を。

この思考が、現代でも無意識に「上か下か」を判定する脳の仕組みとして残っています。

そしてこの考えが定着され続けてきた根拠も存在します。

研究では、社会的地位とドーパミンD2/D3受容体の密度に正の相関があることがわかりました。

具体的には、社会的地位が高い人ほど、報酬や動機づけに関与する線条体におけるドーパミン受容体の密度が高い傾向がありました。

これは、社会的地位の上昇が内的な報酬システムを活性化させる可能性を示唆しています。

Martinez(2010)
https://www.sciencedaily.com/releases/2010/02/100203084254.htm?utm_source=chatgpt.com

このように、進化心理学や神経科学の研究から分かっています。
この根拠があるからこそ、人は社会的地位や序列に敏感だといえます。

さて、では本当にその優劣をつける基準が正確な物かというのが大切ですよね。

やたらと優劣をつけているだけの可能性 エビデンスレベル2

例を挙げてみましょう。

数学のテストを行ったA君とBさん。

A君は94点でBさんは76点でした。

どちらが優秀ですか?

「なにそのサービス問題。A君に決まってるじゃん」

本当にそうでしょうか。

国語のテストを行ったA君とBさん。

A君は71点でBさんは96点でした。

どちらが優秀ですか?

「今度はBさんだな」

では、A君とBさん。

どちらが優秀ですか?

「合計点で言えばBさんが172点だからBさんじゃない?」

Bさんの方が優秀なのだとしたらこの先

理科や社会、英語においても点数が高いと言えますか?

Bさんの方が全ての点数が高かったとして、体育や美術も好成績だと思いますか?

そして

社会人になってもBさんの方が優勢だと思いますか?

「出た出たそういう質問。学歴と仕事ができるかは相関しないっていうのは知ってるよ」

そうです。学歴と仕事は相関しません。

質問を考えていく中で薄々と

「数学の点数が高いからと言って理科の点数まで高いとは限らない」
「数学と国語の点数だけで見れば勝ってるからと言って優秀とは限らない」
「5教科の点数が仕事ができるかの判断にはならない」

と気付いた方もいらっしゃるでしょう。

ならば

「勉強もできて仕事もできるから、人柄も素敵であり人の気持ちもくみ取れる」

とも言えませんよね。
これはすなわち、個人が優秀かどうかの判断が難しい事を意味します。

ではそもそも数学の点数を比較したことに意味があったのでしょうか?

「自分で問題出したんだろ?」

社会ではこのように「本当にそれ意味あるの?」と疑問に思う優劣付けが多く存在します。

もちろん数学の点数が高い方に賞金が出るとか、テレビの視聴率に繋がるという話であれば必要な優劣付けです。

他にも、成績がものを言うスポーツの世界や競馬や競輪など、優劣によって測る事を前提とする業界であれば、優劣をつける事に異議を唱えたところで

「何言ってんの?」

と言われるでしょう。

優劣をつける根本がハッキリしているのなら、意味のある優劣付けだとわかりますが、そもそもの根本が意味不明またはあやふやであるのに優劣付けをされては迷惑極まりないのではないでしょうか。

進化的に見れば、社会的な序列を敏感に察知するのは、生存や繁殖のために有利でした。
しかし現代社会では、命や生存が直結する場面が少ないにもかかわらず、脳の原始的な「序列への過敏さ」はそのまま残っています。
SNSや職場などで「相対的に上か下か」を無意味に気にして苦しむことが増えており、サポルスキーはこれを「進化が追いついていない脳のバグ」と表現しています。

Robert Sapolsky(スタンフォード大学神経内分泌学者)(2005).
The Influence of Social Hierarchy on Primate Health. Science, 308(5722), 648–652.

進化心理学の観点から、生存においての安心感が直接自分の幸福感とつながっていたため、誰かと無理やり比べてでも自分が優秀であると思いたい仕組みが残っているんです。

だから意味の薄い事にさえも優劣をつけたがり、安心したいし幸福感を得たいんです。

誰かが幸せを感じたいがために優劣をつける事を始めた。
それ、付き合ってあげる必要ありますか?
劣等感を抱いてあげる必要があるでしょうか?

意味のない優劣付けが心を苦しめる エビデンスレベル1

「話を発展させすぎなんだよ。テストの点数の話からなんで仕事の話にまで進めた?」
「学生はテストの点数を取る事が成績に関わるぞ?そこでの優劣付けは意味あるだろ」

その成績、どこまで大切なのでしょうか?

「良い進学先や就職先に就けるかに拘ってくるだろ?」

ではその進学先や就職先でどんな成績が必要ですか?5教科ですか?

「5教科をしっかり点数取れる頭だから信用して良い企業が取ってくれるだろ!」

5教科を取る頭と実際に仕事で成果を出すために使う頭、そして進学先で習う分野が違えば5教科の点数を取る力との相関はどんどん薄くなっていきます。

たしかに、5教科の点数を取るために

「何をするべきで、何を耐えて、何を継続するのか?」

を自分で考えて結果に結びつけられる能力が育ったとすれば「結果を出すためにどうすればいいのか?」という思考を持っているだろうと信用される事でしょう。


矢沙玖
矢沙玖

実際の会社での仕事は、やりたくもない事が山ほどあります。

もちろん、5教科の点数を取る事、宿題をしっかりやってくる事は、やりたくもない勉強など嫌な事を工夫して耐え続けたり、楽しさを見出したりして結果に変え、継続してきたことを意味すると私は考えています。

よって、その5教科の点数を取ってこなかった人が信用できないという話であれば、それは私も同意見です。何かに打ち込んでいた等真っ当な理由があればまた別だと思います

ここまでの話から、見られているのってテストの点数ではなく、その点数を取るまでに至ったプロセスや個人の習慣や思考だと感じませんか?

そして今回は、テストの点数という例を挙げましたが、有能・無能・優秀・劣悪という言葉を使って「仕事ができる奴は優秀だから話してても楽しい」だとか「要領がいいから有能だしオーラ出てるなぁ」だとか「無能だから遅刻するんだよ、時間管理できないって事だろ?」とか「劣悪ほど自分の主張をしたがる」と、ごく一部だけを見て強すぎるワードを放ち、決めつけが過ぎる風潮はメンタルにとても悪影響です。

比較レースはメンタルを痛める 

研究では「人より上か下か」で自己価値を測る思考は、成長志向を阻害し、ストレスや不安を増やすことが示されています。

「自分が他人より優れているかどうか」を基準にすると、学習や挑戦に向かう動機が減少し、防衛的・回避的な行動に傾きやすくなるとしています。

つまり「くだらない優劣ゲーム」に巻き込まれることで、実は本当に自分が伸びるチャンスを潰してしまうのです。

Carol Dweck(スタンフォード大学心理学者)

『くだらない』と、強い言葉が出てきましたね。

先ほどの言葉を持ち出しますが、誰かが幸せを感じたいがために優劣をつける事が始められ、それがいまだに続いています。
しかもそれは、結果としてどこかの誰かを傷つけます。

くだらないと思いませんか?

「え、何?低い評価つけられてる人って傷ついてんの?」

研究では、社会的階層が低い個体ほど、ストレスホルモンであるグルココルチコイドのレベルが高く健康への悪影響が大きいことが示されました。
これは、社会的地位生理的ストレス反応に影響を与えることを示唆しています。

Sapolsky(1989)
「それ自業自得じゃね?無能だから低い評価疲れてるんでしょ?それでストレスたまってるって言われてもねぇ・・・」

と、言っている人は共感性という観点で見て劣悪です。
つまり、人を管理する、心を察する、相談に乗るという点においては無能でしょう。

などと言っていては反発が起きあい、傷つけ合いが発生しかねません。

この場合は得手不得手と表現するべきです。

科学的根拠に挙がっている例も社会的階層が低いからストレスが溜まっている。とあります。
確かに、仕事が出来なくて無能だと言われたという事実に基づいたパターンで傷ついているケースもありますが、限定的な書き方は決してされていません。

特定の仕事だけができないだけなのに無能と言われ自己否定し、社会的階層が低いと誤解したパターンでも起きかねません。

気にする意味のない事でも優劣をつけられ社会的階層が低いと錯覚し、ストレスを抱えるパターンもあります。

仕事ができないだけなのに、人として無能なんて言われたらそのストレスは計り知れないでしょう。人柄が素敵な人にそんなことを言うなんて罰当たりとしか思えません。

比較は青天井 

もうひとつ、現代において当たり前のことをお伝えします。

現代社会では、比較する材料が無限に可視化されている(SNS・収入・フォロワー数など)ため、どれだけ上を目指しても終わりがありません。
これは心理学でいう社会的比較理論に基づきますが、
同時に、慢性的な自己否定・燃え尽き・うつ症状の原因にもなります。

(Festinger, 1954)

見出しをもう一度お伝えします。

比較は青天井です。

最近、このブログだけではなく、私の記事の科学的根拠を薄めて主張をメインにしたバージョンの記事をNoteというブログサイトでも投稿しています。

そこでは当たり前のように、フォロワー数やイイネの数が見れて、他のユーザー様のも見る事が出来ます。

そんな場で自分の記事のイイネやフォロワーを、誰かと優劣付けるために頑張ったところでマジで意味ありません。

そして、イイネやフォロワーが多かったからと言って良い記事であるとは限りません。
また、自分にとっては良い記事だったとしても、興味のない人が読めば良い記事とは解釈されません。

いかに比較が上限なしで優劣付けも意味がないかわかるでしょうか。

そろそろ無駄な優劣ゲームが多く存在している事実に気付いてくださったでしょうか。

まとめ

無能・有能
こんな言葉の根本には、くだらない優劣ゲームが隠れている可能性に気付けたでしょうか。

人一人が簡単に測れるほど、個人という器は単純ではありません。

できたとしても、得手不得手、危険かそうでないか。ぐらいの判断までしかできないのが限界といったところでしょう。

にもかかわらず、なぜ無能・有能などと断定できるのでしょうか。

強すぎるワードを耳にするたびに心が荒れるのなら、あなたの中での優秀の定義を思い出してみてください。
あなたの思う優秀の定義からあなたが外れすぎていなければ、無能は当てはまりません。
有能・無能こんな言葉を乱発する彼らは、何を基に断定しているのでしょうか?そんな疑問を持ってみてください。しょぼい根本かもしれませんよ。
そこまでわかれば、あなたが苦しんであげる理由がないはずです。

さて、今回はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考文献

『社会的比較と自己評価の心理学』岸田秀

『脳はなぜ「心」を作ったのか』山鳥重

『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健

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