あけましておめでとうございます。
新年一発から正論マンへの否定的な一文がありますね。
さて、こんな言葉をあなたにかけます。
正論は正しいタイミングで使わないとただの暴力。
そう言われて共感できるあなた。
正論マンに苦しめられていませんか?
「いや、でも間違ったこと言ってないよ?」
そういう問題ではありません。
正論の使い方 エビデンスレベル2
私もこのような発信をする分、気を付けなければならないです。
肝に銘じてはいますが、実態に繋がっているかと言われればまだまだです。
正論は時に人を傷つけます。「正しかろうが言われてすぐその通りになれば苦労しない」といった声はごもっともです。
真面目な人こそ最初は正論を真に受けますが、何度も重なると自己否定に繋がったり社会進出の妨げになる事もあり、正しさを伝える半面で相手への配慮が必要です。もちろんこれも私なりの正論であり、聞く人が聞けば辛いかもしれません。
よって正論の正しい使われ方は、状況と相手の両方に配慮し、改善の見込みがあったり、主張する事で短期的・長期的に良い結果が双方に得られる場合に使われることが理想です。長期的に良くても短期的に大ダメージを与えてしまうのなら、長期的な結果が得られない可能性まで考慮すべきです。
逆に、個人がただ言いたいだけで相手への配慮が欠けていたり、自分が正しいからといってズカズカと正論を投げかけて相手を封じる行為(俗にいう自己満足のための論破)は議論としては正しくても人間関係を生きる上では不適切と言えます。
論破で有名なひろゆきさんも「この喋り方をすると嫌われます」だとか「人を不快にさせる事があるので気を付けてください」と、論破に対するリスクをしっかり説明しています。「嫌われてもいい」とか「自分を抑えるぐらいなら相手を傷つける覚悟で主張する」ではただの加害者です。
その正論を通してどんな結果をもたらそうとしているのか?それを伝えるデメリットや受け手への配慮が無ければ正論マンとして嫌われるでしょう。
防衛機制
アンナ・フロイト(Anna Freud)
正論を突きつけられた際に、人はその正論を「攻撃的」と感じ、心理的に防衛的な反応を示すことがあります。
この場合、例えば次のような防衛機制が働くことがあります
否認:自分の行動や信念が間違っていると認めたくないため、正論を無視する。
合理化:正論を受け入れず、自分にとって都合の良い理由を作り出して正当化する。
投影:自分の問題を他人に投影して「自分は間違っていない」と感じる。
このような防衛機制が働くことで、正論が「押しつぶされる」ように感じることがあります。
「ほらね?言われる方が悪くない?」
繰り返しますが、正論を言う側が言い負かしたい。相手が傷つこうが悪いんだから知らない。言い方まで考慮する義理はない。自分の正当さを示したい。と、正論を言う動機がそれなら暴力です。
さて、では正論ってなんなんでしょうね?
正論の本質とその影響 エビデンスレベル2
つまり、一般論であったり法的な目線であったり、多くの人から支持されやすい論理の事ですね。
これと同時に
「正しいこと」が必ずしも「実行可能である」「人を幸せにする」わけではない。
正論が一方的に押し付けられると、心が傷つき、自信を喪失する人も多い。
このような認識も併せて持っておくべきで、話題としてまだまだ聞きますがひろゆきさんの真似をして嫌われる人や、少しイタイ感じになってしまう人はこの認識が欠けているのかもしれません。
自分の意見を適切に伝えるために知識をつけ、対話を成立させようとするのは素晴らしい事ですが、論破の姿に惹かれて「自分もあいつを言い負かしてやろう」では、自分の気分が良くなるだけで論破の先に何も生みません。
議論は、何かを解決するために賛成と反対、問題提起などが行われる場です。
正論を扱うのなら、様々な視点において自分の発言に責任をもつことも問われます。
正しいと思ったら言えばいい。では済まない結果が起こる事もあります。
認知的不協和
レオン・フェスティンガー
人は自分の信念と矛盾する情報を受け取ると、不快感を感じ、それを解消するために自己の信念を守る方向に行動します。
この理論を踏まえた場合、正論をそのまま言うことが相手の信念と矛盾した場合、その人は無意識に反発し、抵抗感を示すことがあります。
レオンによれば、人は矛盾を解消しようとするため、指摘された正論に対して反発したり、無視したりすることがあります。
正論が相手にとって非常に不快なものであれば、問題を悪化させ、トラブルに発展する可能性があります。
言えば良いわけではなく、時に暴力なんです。
正論で傷つけられる人々の気持ち エビデンスレベル5
今回は、これらの正論で苦しむ方々が正論マンを流せるような余裕を持っていただきたく書いた記事です。
私も経験がありますが、正論をただ放られてこのような気持ちを抱いたのではないでしょうか。
また、正論マンの自覚がある方は受け手の気持ちを開示しますから少しでも配慮に繋げていただければ幸いです。善意で間違う事もありますからね。
• 「分かっていてもできない」苦しみ
正しいと分かっていても、状況や自分のキャパシティの問題で実行できないことがある。
• 「劣等感や無力感」
正論を聞くことで「自分が劣っている」と感じたり、焦りやプレッシャーに追い込まれる。
• 「配慮のない正論=心の暴力」
状況を考慮されない正論で否定され続け、心に大きな傷を残す。その結果拒絶感を覚え、排他された気持ちになる。
・正論に押しつぶされて暴れたくなる
個人が抱えられるタスクの量には個人差があります。そこに正論がたたみかけられると「もうやめてくれよ!」という心理から、衝動的な発言が出たり攻撃的になったりします。
正論を伝えて相手が反発してきたときに「事実を伝えただけだよ?あの人やっぱおかしいわ」と、卑下した噂を流す風潮がよく見られますが、伝え方や伝える量に問題があったから起きた防衛本能という解釈もできます。片方だけに問題があるケースは中々ないんです。
正論マンに対する考え方
このように考えると、楽になるかもしれません。
先ほど「わかっていても能力的にできない」や、劣等感などを挙げましたが、それがあるからと言って人として劣っているというのは無く、相手にはできて自分にはできない事など世の中には無限にあります。だから学ぶんです。学び方にも個人差があるので、そこを棚に挙げて学ばない人間をたたいて傷つけるのも違います。
それらを加味すると、劣等や能力を自分に問題があるように考える必要はなく、また、相手もそこを棚に上げて指摘すべきではありません。人として扱うべきです。
つまり、正論マンは時に相手の事を人として扱っていない可能性があり、そんな失礼な人の言う事などいくら正しいと思っても、姿勢に問題があるとして境界線を引いても良いでしょう。
社会的影響と敬意
ロバート・チャルディーニ
人間関係において、敬意を欠いたコミュニケーションが信頼関係を壊すことがよくあります。
社会的影響の理論によれば、他者からの影響は「信頼と共感に基づく」ものが最も効果的です。
正論マンが相手を「人」として尊重しない態度で接すると、相手は反発し、関係が壊れるリスクが高くなります。当たり前ですね。ですがこれをわからない人が一定数います。また、感情にとらわれ、これが見えなくなる人もいます
このような態度を取ると、単に正しい情報を伝えるだけでなく、信頼感の欠如が生まれ、その後のコミュニケーションに悪影響を及ぼす可能性があるという研究結果もあります。
ジョン・ゴットマンの「関係性の壊れやすさ」に関する研究
共感と尊重
カール・ロジャース
人として尊重し合うことは、良好な関係の基盤となります。
相手の弱点や欠点を指摘する際、非難的なアプローチではなく、共感や理解を示すことが相手にとって建設的であり、また自分自身も劣等感を抱かずに済みます。
人間性理論では、他者を無条件に尊重し、共感をもって接することが、効果的な人間関係を築くために必要だとされています。
正論マンが果たしていない責任 エビデンスレベル2
正論を伝える際には、相手の立場や心情を考える配慮が必要だという事は説明してきました。
配慮のない正論は自己満足だったり、自分に酔っているといった解釈もあるでしょう。
そういった人物が正論を投げてくる背景には、何かしらの問題にあなたが真剣に向き合っていないだとか、責任を放棄しているという節を感じたからこそだとわかりますよね。
ただし、責任をあなたに問うて正論を投げてくるのなら、同じように正論をこの場で投げる事が適切かどうか、相手や環境のその後は?といった責任も問われて当然です。
表裏一体といったところでしょうか。
そして、相手の気持ちや状況を無視したアドバイスは、むしろ問題解決を遠ざける事さえあります。
コンフリクト・マネジメント
ケネス・トムプソン
コンフリクト解決理論に基づいても、意見の食い違いや対立が生じた場合において、適切に意見を交換し、感情や結果に配慮することが重要だとされています。
単に正論を投げつけるだけではなく、その後の影響を考慮し、相手との関係やその場の環境をどう守るかという点がコミュニケーション責任の一環として求められます。
ラルフ・キルマン
正論を気にしすぎないために エビデンスレベル3
私が実際にやっているルールを開示しますね。
- 配慮がない正論は受け取らない。
- 正論を投げてくるという行為に対し、平等性があるか吟味する。
- その正論は思いやりがあるか、相手の自己満になってないか吟味する。
- 私という人物の特性とかけ離れた正論、いわゆる理想論をぶつけてきてないか精査する。
「正論から逃げてるだけじゃないのか?」
「人から言われることがそんなに嫌か?」
ためにならない正論は精神を削るだけで意義を感じません。
自分・相手・環境のためになる正論なら感謝すら述べて取り入れています。
また、コミュニケーションは上下関係こそあれど双方に礼儀があるべきと思っています。
単に人から言われることが嫌なのではなく、配慮のない礼儀無しが相手では聞く気にならないといったところです。ここは私の弱さかもしれませんね。
「君のためにわざわざためになる正論を考えてあげないといけないのかい?」
そうでなければ互いに時間を無駄にするでしょう。
頼んでもいない以上は自己満足と解釈されても文句は言えません。
頼まれてないけど正論を投げかけるのなら、ためになる正論じゃなければなおさら迷惑じゃないでしょうか。
自己開示理論
シドニー・ジェラード
相手が求めていない情報や意見を一方的に伝えることは、受け手に負担をかけ、しばしば反感を招く可能性があります。
例えば、相手が求めていないのに「正論」を投げかける場合、関係性において摩擦を生じさせることがあるとされています。
つまり「正論」を相手が望んでいないタイミングで投げかけることは、感情的に不快な反応を引き起こす可能性があるということとなります。
まとめ
いかがでしたか?
私の感覚ではありますが、正論の正しい扱われ方をお読みいただき、少しでも気持ちが軽くなれば幸いです。
最後に、私の考えを提示します。
- 正論を突き付けられて傷つくのは真面目に向き合っているから。
- 正論に囚われすぎず、自分に合ったペースや方法を探していい。
- 他人の言葉ではなく、自分の心の声を優先することも大切。
- 会話や議論は平等であるべき。
配慮のない正論は私の場合は「受け取らない」と決めています。
そして、時には自分を否定せず寄り添ってくれる人と話すことも、あなたの心のケアのために重要でしょう。
私の記事で軽くなれるのならどんどんご活用ください。
また、正論を扱う事へハードルを感じたかもしれませんが、あなたの権利の侵害など法律にかかわる事が起きたなら正論はしっかり主張してください。
それでは今回はここまでになります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献
『影響力の武器』ロバート・B・チャルディーニ
『嫌われる勇気』岸見一郎、古賀史健
『伝え方が9割』佐々木圭一